癒し

 
  新たな、より深い文脈と意味の発見は、新しいテラピア、新しい癒し(セラピー)の発見でもある。すなわち私たちは、より深くより広い文脈を理解するためには、しばしば多大の抵抗にあっても視点を変え、知覚を深めなければならない。

 『進化の構造1』  P121

インターネット

  ナチスにネットを持たせて、何かいいことがありますか?そこが問題なのです。ネットとは単に社会構造の外面に過ぎません。右下の象限なのです。

 ネットは可能性を提供しますが、実現の保証はしません。
  道徳段階1の人3000万が自我中心的な道徳を拡大する手段を与えられたらどうなると思いますか。ナチスがネットを持って何かいいことがあるでしょうか。

『万物の歴史』 P461-

 

エリート

 あらゆる卓越はエリートである。それにはスピリチュアルな卓越も含まれる。しかし、スピリチュアルな卓越は、すべてが招かれているエリート主義である。

『ワン・テイスト上』 p54

 

苦悩

 苦悩は人間であることの痛みを絶えず思い出させるが、しかしそれはまた私たちみんながお互いにつながっていることを示す最も基本的なあり方のひとつでもある。私たちはみんな、ひどく苦しんだことがあるからだ。苦悩は単なる「否定的」なものではない。それは私たちみんなを結びつける絆でもある。苦悩とは、正確に言えば、最初の恩寵なのだ。

 『〈ワンテイスト〉――ケン・ウィルバーの日記・上』 P84

 

自己中心性

 ピアジェの自己中心性という概念のポイントが「自己中心性は真実を歪める」というところにあることを思い出していただきたい。自己中心性の最大の解毒剤としての瞑想は、したがって真実を開示する能力の増大を意味する。それは自己中心的な知覚のクモの巣を払いのける。それによってコスモスはより明らかに顕現でき、私たちはそれを直視し、私に何をしてくれるのかではなく、私にとって何であるかについて感謝することができる。

 『進化の構造 上』 P404

 

社会適応

 この理論(*注/社会適応を心的な健康とする立場)によればナチスを追放すべき理由はない。ナチ党員は非常に効率的であり、機能的に適応しているからである。スターリンの体制が適切に機能していたら、それは妥当なのであり、誰もウクライナ人が2000万人も虐殺されたことなど問題ない。システムは作動しているからである! 

 『進化の構造 上』 P556

 

 適応ということを心的な健康のただ一つの基準にした医学的精神療法はハインツ・ハルトマンまで遡る。 (中略) 彼は言う。「その生産性、人生を楽しむ能力、心の平衡が保たれていれば、個人はよく適応してると言える。失敗とは、適応の欠如のことである」。言い換えれば右側の道としての行動/機能適応のことであって、社会制度自体がそもそも適応に値するかどうかは問われないのである。もし家庭の主婦の人生が惨めで、無意味であるなら、それに対する療法はもっと文化的な権利を獲得することにあるのではなく、安定剤を与えればいいのである。
    (中略)
  その文化が適応する価値があるかという問いは、深刻に問われない。もしあなたがそれに適応していれば幸福であり、健康であるが、もしそうでなければ病気であり、障害を起こしているのである。かくして適応は、それが適応すべき文化の価値をあらかじめ密かに受け入れている。 

『進化の構造 上』 P556 

 

実存主義

 自分の選択や自分の行動範囲では、自分の下した決断を堅持しなくてはなりません。この点、実存主義者は正しいのです。つまり、自分の選択を支持していかなくてはならないのです。そうすることが、自分の選択を創っていきます。実存主義者が言うように、「我々は自分自身の選択の結果」なのです。自分の選んだ道を堅持することに失敗すると、それは「悪しき信念」と呼ばれ、「真実でない存在」に至ると言われています。   

『グレース&グリット2』 P270

 

情熱

 あなたのヴィジョンに情熱をそそぎ込み、はっきりと話すことだけが、何とかして、気の進まない世界に最終的に真実を浸透させることになりうる。

『ワン・テイスト上』 p57

 

自由

  自由は、いわば、より広い空間を持つ世界空間との同一化に由来する。より深い、広い空間を発見することで、低位の、もっと窮屈な世界から解放されて自由になるのである。それぞれの段階の自由は、こうしてしばしば同時に「〜からの自由」と「〜への自由」として記述される。先行する低位の領域からの自由と、新しい、より広い領域への自由である。

『進化の構造 上』 P656

 

戦争

 戦争とは、大多数の人間が戦いのスリルを愛しているため起こる(男は戦い、女は戦いの栄光のために息子や夫をさし出す)。ヴァン・クレヴェルドの本は、「人間は戦いを嫌う」という概念をまず消し去ることから始めている。彼は言う。「歴史を通じて戦争の恐ろしさを語る人間がいるかと思えば、それと同じ数、戦争とは人間に与えられたあらゆる経験のなかで、もっとも素晴らしいものだと考える人間もいる。あまりに素晴らしいので、戦争から帰って一生そのときの経験を語り続け、孫を退屈させることになるのだ」。それはなぜか。彼は非常に鋭い洞察力を発揮して、こう言っている。「5感をすべて今、ここに集中させるために、戦闘は兵士に我を忘れさせるのである」。
  したがって、カプランは指摘している。「セルビアのチェトニク兵士、ソマリアの傭兵、ハイチのトントン・マクート(秘密警察)隊員、シェラレオネの兵隊たちと過ごした経験のあるものは言うだろう。西欧の体制が浸透せず、大規模な貧困があるところであれば、人々は暴力のなかに解放を見出すと」 。そして「人々が一定の経済、教育、文化的基準を持たなければ、この傾向は鎮静しない」 。  

『進化の構造1』 P591


 自己保存のための殺人とはきわめてゆがんだ考えではあったが、「この発想を理解して初めて歴史の謎がとける」のである。古代の供犠からローマの円形劇場、ナチスの血の供犠にいたるまで同じ理由が支配している。
  ここにみるのは、究極の道のりに作用する陰の力に人間がたよる時、犠牲になるのは同じ人間であるという事実である。ケネス・バークは人間の社会的行動の核心には「いけにえによる社会救済思想」 があるとした。ユージン・イオネスコはさらに次のようにいう。「われわれに不死が約束されない限り人間は相互の思いやりを忘れて互いに憎みあう」 。ルイス・マンフォードは、供犠という現象をふまえて歴史や政治、技術等を説明しようとしし、国家間の均衡を保つには戦争という大型の供犠が必要だとした。
  戦争で争われるのは食物や財産ではない。イデオロギーでさえもない。むしろ各人の不死と超越が争われる。したがって倒れる敵の数が多ければ多いほど勝者の不死は強化された。「死骸のなかに立つ者は幸せである。敵や味方の多くが死滅したが自らは生きのびたという絶対的事実が面前にある。死者は動かず、戦いはあたかも自分のためにあったかのようである。自分だけが選ばれ、自分だけが強かったという感覚におそわれるのもこの時である」。 

『エデンから』 P160

 

存在と行動

 存在(在ること)が意味するのは、手放し、神にゆだねること、受け入れ、信じること、信仰、許すことだ。行動(すること)が意味するのは、変えることができるものに責任をもち、それを変えるためにできるだけ努力すること。これは簡潔で深遠な祈りの言葉の中にある、昔ながらの知恵だ。

神よ、変えられない物事を受け入れる心の静穏と、
変えられる物事を変える勇気と、
そして両者を見極める知恵をお授けください。

『グレース&グリット1』 P114 /出典「ニーバーの祈り」


大衆文化 

 私は大衆文化に深い関心を持っている――音楽、書籍、映画、ファッション、食の流行――第一に、それを楽しむからである。第二に、時代精神、すなわち平均的な大衆の物の見方を組織化する、背景にある一般的な認知構造を見抜くためである――これを見抜くための唯一の方法は、大衆文化に関心を持つことである。現在の大まかな時代の風潮は、合理的な近代から非遠近法的な脱近代への緩慢な移行によって特徴づけられるが、これをはっきりと見ることができるのは大衆文化、特にファッションをおいて他はない。

 『〈ワンテイスト〉――ケン・ウィルバーの日記・上』 P149

 

ダイモン 

 一方ぼくは自分のダイモンを見いだしていた。それは執筆だった。自分が何をしたいのか、そしてなぜそうしたいのかが正確にわかっていた。なぜここにいるのか、そして何を達成しようとしているのか理解していた。執筆しているときのぼくは、それによってぼく自身のより高次の自己を表現しているのであり、そのことに疑いや引け目を感じたことはなかった。ぼくは初めて出した本の中にこんなふうに記した。「23歳のとき、ぼくは我が家にたどり着き、自分自身を見いだし、ぼくの目的、ぼくの神を見いだした」。ぼくはいまだかつてこのことを疑ったことはない。
    (中略)
  だがダイモンには、奇妙で恐ろしい面もある。崇め、それに従って行動しているとき。ダイモンは実際に指導霊となる。内なる神が仕事にひらめきをもたらしてくれる。だがダイモンの声を耳にしながらそれを無視すると、ダイモンはデーモン、すなわち悪霊となる。つまり聖なるエネルギーと特質が退化して、自己破壊的な活動になると言われている。
  たとえばキリスト教神秘主義では、地獄の業火は神の愛の否定、デーモンにおとしめられた天使に他ならない、とされている。  

 『グレース&グリット1』 P103

 ダイモン、ダイモン、ダイモン。それなしでは、コンパスもなく、方向もなく、自分の道、自分の運命を見つける方法もないような気分だ。 

 『グレース&グリット1』 P264

 ダイモンは魂から出てくるもので、体から出てくるものじゃない。 
  ダイモンに忠実でいられないとき、ぼくはF7かF8の病理、魂の病理にひっかかって、魂の病理と低次の病理の二つがぼくをたたきのめしてしまう。  

『グレース&グリット2』 P33

 

 ぼくは執筆を開始した! ひと月半の間、熱にうかされたように、昼も夜も執筆に没頭した。
    (中略)
  3年間の幽閉生活を送っていたダイモンが、エネルギーと気迫をみなぎらせて突然現れてきたのだ。まったく、恍惚状態だった!  

『グレース&グリット2』 P63

 

 あなたは「魂」という言葉が今や本の題名として最も話題になっていることに気づいているに違いない――けれども、そうした本の多くにおいて、「魂」が実際に意味することは、単にのろのろ歩いている自我にすぎない。「魂」は、次第に激しくなる翻訳/変換的な貪欲さの狂乱において、あなたの内側の無時間ではなく、時間の中で最も騒々しく手足をばたつかせることを意味するようになった。そして、「魂の世話」とは、不可解なことに、あなたの燃えている分離した自己に対して強く焦点を当てることを意味するようになった。  

『〈ワンテイスト〉――ケン・ウィルバーの日記・上』 P57

 

 それは慣習的かつ世俗的な世界を超越する雰囲気を呼吸することに始まる超―個人的な自己の感覚である。

『〈ワンテイスト〉――ケン・ウィルバーの日記・上』 P71

 

 さて、<永遠の哲学>の伝統の大半によれば、魂には明確な基本的特徴が2つあるとされている。第1に、魂は人の「徳ないし徳の欠如――すなわち、よいカルマと悪いカルマの両方」の貯蔵庫であるということ。第2に、魂とは自覚の「力」であり、執着や嫌悪をもたずに、現象界を「目撃する」ことのできる能力であること(ちなみに、この能力は「智慧」としても知られている)。徳と智慧、この2つの蓄積が、転生する唯一のものである魂を構成する。   
    (中略)
  魂には無時間的な性質があり、それが次第にまったく明白なものとなっていく。すなわち、人は魂の不死性を実際に「味わい」、魂がある程度、時間や歴史、生死をこえていることを直観しはじめるのだ。こうして人は徐々に、魂が身体や心とともに死ぬものでないこと、身体や心が存在する以前にも魂は存在していたし、以後にも存在するだろうということを確信するようになる。 

『死を超えて生きるもの』からDeath,Rebirth,and Meditationより。 P246

 

地球宗教

 新しい地球宗教(複数)は、新しい地球文化の内部から生まれるのであって、単純に過去の宗教に接ぎ木して生まれるのではない。新しい地球宗教は、黙想的な意識に根ざすであろうが、そうした意識はまた自然に、ふつうにシリコン・チップのディジタル言語を話すであろう。また雨や風の戯れのなかに自身を見つめるのと同じように、ヴァーチャル・リアリティに自分自身をはっきり見つめることになるだろう。地球的視点と普遍的な多元主義は、当然のものと見なされ、スピリットは身体や血管を通るのと同じように、光ファイバーのなかを自由に動くだろう。すべて自然で、ふつうで、生き生きしたものとして起きてくるだろう。こうした地球的なネットワークの内部から、超越への新しい声が、神性なるものに対して敏感な人々を惹きつけていくだろう。地球的な人々の国境を超えた神経ネットワークの内部から解放を指し示す声が聞こえてくるに違いない。  

『進化の構造1』 P588

 

哲学

 哲学が意味をもつとすれば、それは情熱的で沸騰し、頭脳を沸き足たせ、眼に焼きつくようなものでなければならない。そうでなければ、哲学を実行したことにはならない。同じことが、感情のスペクトルの反対側にも応用できる。本当の哲学は、霧のように静かで、涙のように穏やかなものでなければならない。それは世界を、むきだしで、オープンで、傷つきやすく壊れやすい赤ん坊のように抱く。この哲学という領域に、私が何かをもたらしたとすれば、それはわずかばかりの情熱であることを願っている。

『ケン・ウィルバー――情熱としての思考』フランク・ヴィサー序文

『存在することのシンプルな感覚』(ケン・ウィルバー著・松永太郎翻訳) p205

 

 

チャーム「魅力=魔力」 

 クリスの魅力はトレヤに素晴らしい効果を及ぼした。白人医学に欠けているのは、まさにこの「魅力=魔力」(チャーム)だ。白人医学においてそれは、「プラシーボ(偽薬)効果」という殺菌処理を施された言葉によって台なしにされている。 

 『グレース&グリット2』 P22

 

 顕現は罪ではない。顕現の中で迷子になることが罪なのだ。私たちは自我が自然が〈コスモス〉全体における唯一のリアリティであると考えている。そこに私たちの罪と苦しみがある。私たちは人生という粗大な映画の中で迷子になり、投射機、光、スクリーンすべてが究極の〈ワン・テイスト〉の形に他ならず、輝く〈空〉から投射される波動であることを忘れている。

 『〈ワンテイスト〉――ケン・ウィルバーの日記・上』 P278

 

統合的

 「統合的」あるいは「包括的」という言葉を説明する方法はたくさんある。最も一般的な方法は、それが、物質、身体、心、魂、そして霊〈スピリット〉を包括し、統合することを試みるアプローチである、というものだ――すなわち、それは〈存在の大いなる入れ子〉全体を包含することを試みる。 したがって、物質と取り込む物理学、生命と取り組む生物学、心と取り組む心理学、魂と取り組む神学、霊〈スピリット〉の直接経験に取り組む神秘主義――リアリティに対する包括的アプローチは、いくつかの例をあげるならば、物理学、生物学、心理学、神学、神秘主義のすべてをふくむだろう。

 『〈ワンテイスト〉――ケン・ウィルバーの日記・上』 P101

 

 誰もが自分自身で統合的な実践を組むことができる。考え方としては、人間の身心の主要なレベルと次元をすべて同時に鍛錬することである――身体的、情動的、心的、社会的、文化的、霊的。

 『〈ワンテイスト〉――ケン・ウィルバーの日記・上』 P213

 
  意識に関する純粋に統合的な理論は可能だろうか? これが私からの皆さんの質問であり、私の挑戦でもある。私たちを包含する傘はどれだけ大きいだろうか? 私たちは意識に関する合唱隊にどれだけの声を認めることができるだろうか? 私たちの努力にどれだけの神々が微笑みかけるだろうか? 私たちの虹色の連合にどれだけの色を心から認めることができるだろうか?

 『〈ワンテイスト〉――ケン・ウィルバーの日記・上』 P171

 

ニヒリズム

 極端な構築主義は、実際、ポストモダン的なかたちのニヒリズムにすぎません。世界に真理などない、人が他の人に押しつけようとする見解があるだけだ、というのです。こうしたニヒリズムは<コスモス>の顔を覗きこみ、終わりのない鏡の廊下を見るのですが、結局自分自身の利己的な意地悪さが無限に映っているのが見えるだけなのです。で、そうしたニヒリズムの隠された核心は、ナルシシズムです。真理は無視され、理論家のエゴに取り替えられる。これがアメリカの大学におけるメジャーな運動なのです!  

『万物の歴史』  P98 

 

ニューエイジ 

 ぼくはニューエイジ的信念もたらす苦しみについて、同情をこめて説明するつもりはない。むしろ、それらを整理分類し、とことん理論化してやろうと思っている。なぜなら、こうした考えは危険だし、さらなる苦しみを防ぐという目的のためだけでも、整理して片づけてしまう必要があると考えるからだ。
    (中略――攻撃の矛先をセミナー指導者に向けて)
  彼らは善意の人であるかもしれないが、にもかかわらず危険人物だ。なぜなら、彼らは、必死の働きかけが必要な本当のレベル――身体的、環境的 、法的、道徳的、社会経済的レベル――から、人びとの注意をそらしてしまうからだ。
  ぼくの考えでは、これらの信念――とりわけ自分が自分の現実を作っているという信念――はレベル2のものだ。そこには自己愛的人格障害に特有の小児的かつ魔術的な世界観のすべての特徴(誇張、万能感、ナルシシズムなど)が含まれている。思考が現実に影響を与えるだけでなく現実を作り出すという概念は、自我の境界線が完全にできあがっていないこと(これがレベル2の特徴だ)の、直接の結果だとぼくは思う。思考とその対象が明確に分離されていないため、思考を操作することがすなわち対象を万能的かつ魔術的に操作することになってしまうのだ。 
    (中略)
  ぼくはニューエイジ運動そのものを、全面的に非難しているわけではない。この運動はいわば一匹の大きな、まだらな動物のようなもので、そこには確かに、真の神秘主義的、超個的原理に基づいている側面もある(直観を重視したり、普遍的意識の存在を認めているところなど)。ただ問題なのは、真の超個的な運動は常に、非常に多くの前個的要素を惹きつけるということだ。理由は簡単で、どちらも非個的だからだ。この「前」 と「超」 の混乱こそが、ニューエイジ運動における主要な,問題点のひとつだとぼくは思っている。    
    (中略)
  トランスパーソナル(超個的)な集団を探すには、その集団が「ニューエイジ」 と呼ばれることを好まないことを目安にすればいい。トランスパーソナルに「新しい」ことなど何もない。トランスパーソナルは永遠なものだから。 
    (中略)
  われらが「浅はか」 な友人たちは、ぼくたちにたいしてかなり腹を立てている。それは彼らがこの世には合理主義的陣営と非合理的陣営のたった2つしか存在せず、合理主義の陣営に対抗するためにぼくたちも協力すべきだ、と考える傾向があるからだ。けれど実際には3つの陣営が存在している。前合理的陣営と合理的陣営、そして超合理的陣営がそれだ。ぼくたちといえば、実際には前合理主義者よりは、合理主義者に近いところにいる。  『グレース&グリット2』 P79-  

関連するインタヴュー≫

 

  それ(註:ニューエイジ運動)はいかなる意味でも継続性のある内面と外面との両方のヴィジョン・ロジックに欠けているのだ。また高次の内面的次元にアクセスする一貫性のある技術に欠けている。また社会的制度化の手段(理論さえ)を持っていない。言い換えれば4つの象限すべてにわたる分析と実行手段を持っていないのである。  『進化の構造1』 P588

 

 ロマン主義直系の子孫

『宗教と科学の統合』 P122

 

美と芸術

 私は単純に「美」と「芸術」とを等しいものとは見ない。「美」とは、一者に対する現象の透明性(現象を透過して一者が現れること)であり、「芸術」とは、そのまわりに枠組みを持つもののことである。・・・
  モナ・リサは「芸術」であり、「美」であるが、トマト・スープの缶は「芸術」である。 

『進化の構造2』 P358

 

ペルソナ

 ペルソナそのものは必ずしも病的な構造ではなく、社会相互作用を円滑にするために着用しうる”よそゆきの顔”ないし”社会的仮面”のようなものだという点である。それはさまざまな務めの円滑化を助けるために特別にあつらえられた役割であって、人は――父親のペルソナ、医者のペルソナ、夫のペルソナ、妻のペルソナなど、何種類かのペルソナをもつことができるし、またもつべきだともいえる。その人のもちうるすべてのペルソナの総和が自我の全体であり(わたしの定義)、自我そのものが、種々のペルソナの学習と、それらを統合された自己概念に結び合わせることによって作り上げられている。
    (中略)
  これを、一般的な、いくぶん単純化した公式にすると――ペルソナ+影=自我ということになる。 

 『アートマン・プロジェクト』  P74

 

瞑想

 最大の落とし穴は、いってみれば独自の条件下や独自のレベルでしか扱えない問題を「霊的に回避」するために瞑想を用いることです。人は瞑想が自分の金銭的問題、セックスの問題、食べ物の問題を解決してくれると考える。むろん、そんな問題は解決してくれません。

 わたしがいいたいのは、瞑想をある種の万能薬と考えている人が多いが、そうではないということです。瞑想が何かといえば、あなた自身の成長と進化に関与する直接的な方法だということです。そして例によって、成長は苦痛を伴う。傷つくからです。

 偉大な聖人や賢者の生涯を見てください。そこには並外れた努力と苦痛がある。注意してみると、そのほとんどが瞑想をはじめる前ではなく、瞑想によって成長した後にはじまっている。     

 『トランスパーソナル ヴィジョン 特集 ケン・ウィルバー』 p9 

 

 瞑想とは、後に詳しく見るように、さらなる内面への遡行であり、こうしてさらなる超越、新しい高次のアイデンティティの発見へと結びつく。したがって瞑想は、自己中心性とナルシシズムに対する(そしてまた地上中心性、人類中心性、社会中心性への)最強の解毒剤なのである。
  またピアジェ自己中心性という概念のポイントが「自己中心性は真実を歪める」 というところにあることを思い出していただきたい。自己中心性の知覚のクモの巣を払いのける。 

 『進化の構造1』 P404


(ウィルバーは瞑想体験を「ハイアーセルフ」「内なる声」といった、「私」言語のみで語る傾向に注意を促している)
   
  そうした解読は「私たち」および「それ」次元を無視してしまうか、またはひどく縮小してしまうのです。それは、スピリットの間主観的形態であるコミュニティ、社会奉仕、文化的活動についてそれにふさわしい説明を怠っています。それはスピリットの客観的形態である技術・経済的下部構造、および社会システムの変化を無視または看過します。それは意志的なものに中心を置きますが、行動的、文化的、社会的なものを無視する――他の3つの象限を無視する――か、または少なくともそれらを非常に劣等な、2次的な地位に落すのです。
    (中略)
  そこにあるのは、自分が<より高い自己>と触れることができさえすれば,他のものはすべて自分の世話をするだろう(放っておいてもうまくいく)という考えのようです。
    (中略)
  しかし、そうしたことをすべてを無視していると、遅かれ早かれあなたはなんらかの象(現実のこと――註)にぺしゃんこにされます。病気になる、または職を失う、または対人関係でしくじる――なんらかの象があなたを圧し潰すわけです。
    (中略)
  他方、より洗練された解釈は、さらなるそしてより深い直観――「私」、「私たち」および「それ」領域に触れる直観――を促します。たんにいかにして<より高い自己>を実現したらいいかでなく、いかにしてその自己が文化のなかで受容され、自然のなかで体現され、そして社会制度のなかに埋め込まれるように気をつけてたらいいかについての直観を。
  実現され、受容され、体現され、埋め込まれる――スピリットは4つの象限すべてとして顕現し、ゆえに4つの象限すべてにわたるより洗練された解釈。 そしてこうしたより洗練された解釈は、解釈を要求している当のスピリットの誕生を促すのです。 

『万物の歴史』 P474

 

メニュー

――本当の超越を知る道は、実際に変容する以外にない。食べ物をつくり、それを食べるのであって、メニューを飾りたてることではありません。 

 『眼には眼を』 P338

 

夢と悪夢

 いずれにせよ、この「永遠の心理学」にしたがうなら、個人的な自己を(ある意味で)幻想と、そしてそれが住む世界を夢とみなさざるをえない。とはいえ、これは決して西洋的アプローチを卑しめるものではない。なぜなら、たとえ東洋的な教えがこの夢からわれわれを目覚めさせることができるとしても、それまでの間、西洋のそれは、夢が悪夢になることを防いでくれるからである。   

『意識のスペクトル1』  P24

 

喜び

 喜びは他者を考慮に入れることができるようになるまでは、スピリチュアルな喜びと言えない。自分自身の自我だけにまったく限られた喜びも喜びかもしれないが、それはスピリチュアルな喜び、喜びのエッセンス、そういったものではまったくない。それは自己中心的、自己没頭的、自己讃美的だ――もし、それが君にとっての〈スピリット〉であるならば、誰かが深刻な問題を抱えているだろう。

 『〈ワンテイスト〉――ケン・ウィルバーの日記・上』 P278